全校礼拝 ルカによる福音書12章16-20節 「“いのち”を考える」

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2018年9月7日(金) 全校礼拝が行われました。
宗教主事の樋口進学院長が、
ルカによる福音書12章16-20節 「“いのち”を考える」と題して、お話をしてくださいました。

 今日は、皆さんと共に “いのち” ということを考えてみたいと思います。
 
現在、私たちは「生きて」います。それは、“いのち” が与えられているからです。しかし、この “いのち” は、いつかは取り去られるものです。人間は、すべて死すべき存在です。これは誰も避けることのできない厳粛な事実です。この点に関しては、人間はすべて平等だと思います。どんなに財産があっても、どんなに知恵があっても、どんなに権力があっても、死を免れることのできる人はいません。

 昔、中国の秦の始皇帝は、自分の権力と財力でもって何とか自分の命を延ばそうとして、部下に不老不死の薬を全世界に探しに行かせたということですが、それは叶いませんでした。死はすべての人に平等に訪れます。そしてその時は、誰にも分からないのです。弱々しそうな人が意外に長生きすることもありますし、元気はつらつとしていた人が、あるとき突然死ぬこともあります。

 また、先日の豪雨や台風や地震などの自然災害において、突然命を奪われる場合もあります。いつ命が奪われるかは分かりませんが、分かっていることは、私たちはいつかは “いのち” が取り去られる日がある、ということです。この “いのち” は、私たちにはどうすることもできないものなのです。私たちは、神によってこの “いのち” を与えられて、ある期間この世に生きますが、しかしいつかはこの “いのち” は神によって取り去られるのです。それ故私たちは、この “いのち” に関しては、厳粛にならざるを得ませんし、与えられた命を大切にしなければならないと思います。

 そして重要なことは、この “いのち” は、神によって与えられたのだ、とおもうことです。 “いのち” の主は私たちではなく、神である、ということです。

 先ほどお読みしましたルカによる福音書に於いて、イエスは「愚かな金持ちのたとえ」をされました。この金持ちは、自分の畑に沢山の作物ができたので、これを大きな倉に入れて、この後何年も生きていくことができる、と思ったのです。その時神は、20節のように言われました。

 「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」

 この金持ちの農園主は、“いのち” の主は自分であると考えていたのです。多くの財産を持っていたので、いくらでも生きられると思ったのです。しかし、“いのち” の主は、人間ではなく、神なのです。私たちの “いのち” は、この “いのち” の主である神によって与えられたのです。そして、“いのち” の主は、また私たちから “いのち” を取り去ることもできるのです。

 ここで “いのち” と訳されている語は、ギリシア語ではプシュケーと言います。これはまた「魂」とも訳されます。これは単に動物的に生きるという意味での生命ではありません。もちろんそれも含みますが、人間としての尊厳ある “いのち” です。

 この農園主は、沢山の食料を蓄えて、ただ動物的に生きることだけしか見えなかったのです。そこには、その “いのち” が神から与えられたものという意識は全くありません。私たちの “いのち” が、神から与えられたものと認識するならば、その “いのち” を与えて下さった神との関係に生きることが大切です。

 神との関係に生きるということは、他の人との関係に生きるということでもあります。この金持ちの農園主は、自分は沢山の食料が収穫できて何年でも贅沢に暮らすことができると喜んでいますが、食料にもありつけない貧しい人のことは何も思わないのです。 “いのち” が神から与えられたものだと意識するなら、自分の “いのち” だけでなく、他の人の “いのち” も大切にします。それは、どんな “いのち” も魂として尊厳のあるものだからです。

 体は至って健康であっても、魂が死んだようになっている人もいます。イエスの譬えの金持ちの農園主は、 “いのち” は神によって与えられたもので、尊厳のあるものである、ということは考えなかったのです。

 そうではなく、私たちは、一番大切な “いのち” を神から与えられているということを思い、尊厳のあるものとして大切にしたいと思います。