5月18日(水)全校礼拝

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5月18日(水)全校礼拝が行われました。

讃美歌 18番(1、2番)
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聖書 ルカによる福音書10章25-37節
メッセージ「隣人とは」
学院宗教主事 樋口 進 牧師

 

今日読んだ聖書は、イエスがされた「よいサマリア人のたとえ」と言われています。
ここに登場する律法の専門家は、イエスに、旧約聖書の中でどの教えが最も大切か、ということを問うたのです。
しかしイエスは、その問いを律法の専門家自身に答えさせています。
そしてその答えは、27節にあるように、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」ということでした。
これは、大正解でした。当時の法律の試験では、100点満点でした。
しかし、イエスはここで、正解を知っていても、それを実行しなければ何にもならない、ということを問題にされたのです。
「隣人を自分のように愛しなさい」ということを教えるために、この「よいサマリア人のたとえ」をされたのです。
ある人が旅の途中に追いはぎに襲われて半殺しにされ、道に倒れていました。
そこに三人の人が通りかかりました。最初に通りかかったのは祭司でした。
祭司は、神の教えで最も大切なものは何か、ということをよく知っていました。
しかし、強盗に襲われて苦しんでいる人を見たのですが、何も助けずに、道の向こう側と通って行ってしまいました。
何か急ぎの用があったのかもしれませんが、恐らく誰も見ていなかったので助けなかったのでしょう。次に来たのは、レビ人でした。
レビ人というのは、神殿に仕える人で、これも神の教えで最も大切なものをよく知っており、むしろ人々にそれを教えていた人です。
しかし、この人も、倒れている旅人を見ましたが、見ないふりをして通り過ぎて行きました。
この人たちは、恐らく、ややこしいことには関わりたくない、といった気持ちから見て見ぬふりをしたのではないでしょうか。
普段は、苦しんでいる人たちを助けなければならないということをよく知っていたし、そういうことを教えていたのですが。
わたしたちの身近においてもしばしばこのような事件が起こります。
時々新聞なんかで見ますが、誰かが道路に倒れていて、大勢の人が通っているのに誰一人助けようとしない、また誰一人救急車を呼んだり、人に知らせたりしない。
皆、そのうち誰かが知らせてくれるだろうと思って、自分のために急いでいた。
そのような無関心が、都会の真ん中で起こっていた、という報道です。
しかし、わたしたちも、ややこしいことに関わりたくない、という思いはあるのではないでしょうか。特に、関わっても自分に何のメリットもない、と思われる時には。わたしたちは、親切にする相手が自分にとって有利な人であれば親切にするが、そうでないと思われる人に対しては、煩わしいと思うのではないでしょうか。まして、普段憎たらしいと思っている人に対しては、たとえ相手が困っていてもなかなか手をさしのべません。
さて、3番目に通りかかったのは、サマリア人でした。
このサマリア人というのは、当時、倒れているユダヤ人とは犬猿の仲でした。
しばしば敵対関係にありました。
ですから、このサマリア人が倒れているユダヤ人を見て助けたいとは思わず、通り過ぎてもよかったのです。
ところが、このサマリア人は、「その人を見て憐れに思った」とあります。
たとえ、普段は仲が悪くても、半殺しにされて苦しんでいる人を見た場合、「憐れに思う」のは、人間の自然な感情ではないでしょうか。
しかし彼は、それだけではなく、親切に介抱し、また宿屋に連れて行き、デナリオン銀貨2枚を支払った、というのです。
そして、イエスは、律法の専門家に「誰が隣人になったか」と尋ねました。
すると、彼は、「その人を助けた人です」と答えました。
まさに正しい答えであり、この律法の専門家は、聖書の根本的な意味を十分理解していた、ということになります。
しかし、人を愛すると言うことは、論ずるのは易しいですが、行うのは実は非常に難しいのです。
それは、人間は、自分中心だからです。
相手の立場に立って考えるということがなかなかできないからです。
イエスは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」ということを言われました。そして、イエス自らこのことを行いました。
「隣人を愛する」というのは、その人と関わると言うことです。
その人に関心を持つと言うことです。
その人を無視しない、ということです。
マザー・テレサは、一番いけないのは、無関心になることだ、と言いました。倒れている人を見た場合、見たということで、その人の隣人となっているのです。そして、関心を持つと言うことは、その人に手をさしのべると言うことです。無関心にするのでなく、無視するのでなく。
そんな大それたことをしなくても、まずは関心を持つと言うことが大切です。大地震で苦しんでいる人の報道をテレビで見たならば、そのときにその人の隣人となっているのです。
だからといって熊本までボランティアに行かなくても、関心を持つ、自分に何ができるか考えること、募金に協力すること、その人のために祈るということでも、小さな「隣人を愛する」行為なのです。
大事なのは、関心を持つこと無視しないことです。