10月3日(火)放送礼拝メッセージ「希望に生きる」

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10月3日(火)に、放送礼拝が実施されました。

 
ペテロの手紙Ⅰ 1章22-25節 
「希望に生きる」
学院宗教主事 樋口進

皆さんは、何か困ったことや苦しいことに遭遇した場合どうされますか。
普段信仰心がない人でも、そういう時には神や仏に祈ったりと言うことはないでしょうか。「困った時の神だのみ」という言葉があります。
普通宗教を求めるという場合、何か困った事が起こった時、苦しいことが起こった時に、それを取り除いてもらおうとして求める、ということが多いのではないでしょうか。
普段は宗教には無関心であっても、苦しい事が起こった時に、神や仏に頼ろうとする人がいます。

しかし、聖書はそういうのと少し違います。
先程読んで頂いたローマの信徒への手紙5章3節で、パウロは「苦難をも誇りとします」と言っています。以前に訳された口語訳聖書では、「患難をも喜んでいる」と訳されています。
患難とか苦難は、私達にとっては、決して歓迎すべきものではないでしょう。
少なくとも、それを喜んだり、誇りにしたりするものではないでしょう。
そういう事態は出来るだけ避けたいし、もし起こっても出来るだけ早く取り除いて欲しい、と思うものではないでしょうか。そして、そのために神仏に願ったりするのです。
苦難を喜べ、という宗教は余りないと思います。

しかしここでパウロは、「苦難をも誇りとします」と言っています。
しかし、パウロは、この苦難を成功することの手段と考えているのではありません。
苦難をステップにして何か成功しようというのではありません。かと言って、苦難それ自体を喜んでいるのでもありません。
マゾヒズムという言葉があります。自虐的と言います。
自分が苦しめられたり、虐待されたりすることに快感を覚えるという異常心理です。
勿論パウロは、そのようなマゾヒズム的な喜びを言っているのではありません。
そうではなく、その苦難はそれに終わらず、希望へと通じていることを信じているからです。
それは、神を信じ神に委ねることから与えられる希望です。
人間、希望に生きることが、いかに大きな力を与えてくれるか、ということが分かります。

希望を持って生きた一人の人のことを話します。
それは、『夜と霧』という本を書いた心理学者のフランクルという人です。
彼はユダヤ人ということで、第二次世界大戦の時、ドイツのナチスに捕らえられ、アウシュビッツの強制収容所に送られました。
そこに於いては、過酷な条件のもとに多くのユダヤ人が死んでいきました。
しかし、そのような過酷な条件の中にあっても死なずに生きていた人(自分もその一人でしたが)は、必ずしも肉体的に頑強な人ではなく、何かの希望を持っていた人であった、と言います。
例えば、「今晩の食事には何が与えられるだろうか」というようなささいなことを連想するのです。
ほんの些細な希望ですが、極限状況の中でそのようなことを考えることが生きる力になった、というのです。何の希望も持てなかった人は死んでいった、というのです。
1944年のクリスマスが済んだ時に大勢の人が死んでいった、と言います。
それは、彼らはクリスマスに家に帰れるという当てもない期待を抱いていたのですが、それが実現しなかったので、希望が挫かれ、気力も失われてしまった、と言うのです。
フランクルは、心理学者として、それを冷静に観察し、希望を持っている時は病気に対する抵抗力を高めたが、それが失望になると抵抗力を低下させ、ついには死に至らせた、と言います。
このローマの信徒への手紙を書いたパウロという人も、実にいろいろな苦難に遭遇しましたが、その苦難自体を見て絶望的な思いを抱くのでなく、その苦難は忍耐を通して、希望へとつながっていることを確信したがゆえに、大きな働きをなすことが出来たのです。

苦難を経験しない人はいないと思います。
皆さんも長い人生の中において、多かれ少なかれ何らかの苦難に遭遇します。
あるいは皆さんの中にも、現在何らかの苦難を抱いている人もいるかも知れません。
その時に、絶望に打ちひしがれてしまうのでなく、忍耐をしつつ、その中になんらかの希望を見いだしてみてください。きっと、その先に道が開けると思います。