花の日礼拝が行われました

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花の日礼拝が6月22日(月)に行われました

前奏                            讃美歌90番
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聖書                            メッセージ「野の花を見よ」
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祈り                            讃美歌312番
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主の祈り・頌栄                     祝福・後奏
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皆で持ち寄ったお花を高校生徒会のメンバーが花束にしていろいろな施設へどけます。
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この礼拝で普段考えることの少ない花の存在について知り、心を豊かにしてくれればと思います。

樋口 進 牧師のメッセージ  「野の花をみよ」はこちらをクリック

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

花の日礼拝

マタイによる福音書6章25ー34節  「野の花を見よ」

今日は、花の日です。
今日は美しい花を飾って礼拝をします。
私達は、花を見る時、何を感じるでしょうか。
ただ奇麗だ、素晴らしい、というだけではありません。

それは、神の愛です。
この花の日の礼拝において、私達は神の私達に対する愛に思いを馳せたいもと思います。
花は、神が私達に下さった、素晴らしいプレゼントのひとつです。

もし、この世に花がなければ、何と寂しいことでしょう。
病気で入院している人にとって、花は大きな慰めとなります。
職場における花は、仕事の疲れを癒してくれます。
食卓に一輪の花があると、食事を一層おいしくさせます。
道路に花が植えられていると、楽しい気分になります。

また、礼拝においても、花は欠かすことの出来ない重要な要素です。
結婚式における花は、新しいカップルを祝福するのにふさわしいものです。
また、お葬式の時の花は、悲しみにある人を慰めます。
私達は、生活のあらゆるところで、花によって喜びが与えられ、慰めが与えられ、力が与えられ、夢が与えられます。

しかし、花の最も重要な働きは、私達に神の愛を教えてくれることです。
星野富弘は、『風の旅』という本の中で、次のような詩を作っています。

「花が上を向いて咲いている 私は上を向いてねている あたりまえのことだけれど神様の深い愛を感じる」

この短い詩の中に、実に深い真理が言われていると思います。
この星野富弘という人は、皆さんよくご存じだと思いますが、高校の体育の教師になって2か月後に、宙返りに失敗して、首の骨を負傷し、首から下がすべて麻痺してしまい、以来、寝たきりの生活になりました。
この星野さんが、たったひとつ動く口を使って、病床で花を描いたのです。
そして、先程引用した詩のように、花を見ることによって、神の深い愛を知った、というのです。
そして彼は、後に洗礼を受けて、クリスチャンになりました。
これは、まさに、神が花を通して、星野さんに神の愛を知らせたように思われます。

さて、今日お読み頂いた所は、イエスが山の上で話をされた記事です。
周りには、奇麗な花が沢山咲いていたことでしょう。
イエスは、その花を見ながら、神の愛、神がいかに私達を養って下さるかを教えられました。

今日の所に、「思い煩うな」という事が繰り返し言われています。
25ー34節の間に、7回も出てきます。
それだけ、私達は常日頃思い煩うことが多い、ということでしょう。
「思い煩う」と訳されているギリシア語は、メリムナという語で、これは人間の奥深く抱いている心配、懸念、悩みを意味しています。

私達は、常日頃、生活上のことで、色々思い悩みます。
皆さんもきっと、いろいろなことに思い悩む時があると思います。
もしも、この思い悩むということから解放されたら、どんなに素晴らしいことでしょうか。

しかし、現実は、というと、私達は、常に思い悩んでいるのです。
職場での仕事のこと、人間関係、子供の教育のこと、病気に対する不安、老後の不安、皆さんだったら学校の成績、受験、就職、異性の問題、家庭のこと、友達との関係など、数えあげらばきりがありません。
私達は、絶えず、このような問題に思い悩んでいるのです。
そして、この思い煩うというのは、昔からそうでした。
ただ、現代は、思い煩わす原因が実に多い、ということは言えるでしょう。
古代においては、ここにあるように何と言っても食べること、着ることなど、明日をどう生きるか、という生活のことが多かったでしょう。

釈迦は、生老病死ということを言いました。
すなわち、生きていくことにおいても、老けていくことにおいても、病気になること、死ぬこと、これらは人生における苦しみだ、と言うのです。
イエスは、ここで、食べ物とか着物のことで思い煩うな、と言っています。
衣、食、住は、人間の生活において最も重要なことです。
イエスは、ここで、食べ物とか着物はどうでもいいのだ、断食して、裸で暮らせ、と言っているのではありません。

33節には、次のようにあります。

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

最優先するのは、神の国と神の義である、ということです。
すると、私達に必要な物はすべて添えて与えられる、と言っています。
私達がまず求めなければならないのは、神であって、食べ物や着物は、神の恵みとして与えられるものです。
与え賜う神を忘れ、与えられる物にのみ目を向けるのは、本末転倒です。

25節には次のようにあります。

それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
 
食べるのは、自分の命を保つためです。

ところが、食物と自分の命とでは、命の方が大切です。
そして、この命は、神に与えられたものです。
創世記2章のところには、神は土のちりで人を造り、それに命の息を吹き入れられた、ということが言われています。
即ち、私達は、神によって命が与えられたのです。

そして、神は私達を気まぐれに造られたのではありません。
一人ひとりをかけがえのない者として、造られたのです。
そうであるならば、この命を保つために食物も与えてくれないはずはありません。
また、着物は体を保護するものです。

ところが着物と体とでは、体の方が大切です。
そしてこの体は、神から与えられたものです。
神が大切な体を与えて下さったのです。
そうであるならば、この体を保護するための着物も与えて下さらないはずはありません。

最初の人アダムとエバが「禁断の木の実」を食べて、楽園を追放された時にも、神はこの二人に皮の着物を造って着せられた、とあります。
神に反逆した者にも、神は着物を与えて、守って下さったのです。
そのように、神は私達を豊かに養って下さっているのです。

私達は、心が鈍いために、あるいは肉の欲に支配されているために、その神の保護に気付かないでいるだけです。
イエスは、ここで、空の鳥と野の花で、そのことを教えようとされたのです。
イエスは、ここで、自然を通して、神の愛を教えようとされたのです。
実にイエスは、偉大な教師であったことが分かります。

イエスは、この教えをガリラヤの山の上で語られました。
周りには、小鳥が飛びかっていたでしょうし、また奇麗な花が一面に咲いていたことでしょう。
このような、だれにでも身近なものによって、神の深い愛を教えられたのです。
空の鳥も、野の花も、神の創造されたものです。

しかし、人間は、それらの被造物のなかで、最も大切なものとして造られました。
神は、空の鳥さえ養っているのだから、最も大切なものとして造られた、人間をそれ以上養って下さらないはずはない、とイエスは言うのです。
28ー30節には、次のようにあります。

また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。

ここで「野の花」と訳されているのは、クリノンというギリシア語です。
かつては、「野の百合」と訳されていました。
「百合」だとか、「アネモネ」だとか「グラジオラス」のことだ、と言われていますが、イエスは、恐らくここでは、特定の花をさして言っているのでなく、ガリラヤの野に自然に咲いていた美しい花を総称して言っているのでしょう。

しかしこれは、非常に美しく咲きますが、すぐに枯れてしまいます。
しかし、ソロモンの着物さえ、これほど美しくはなかった、と言います。

ソロモンは、紀元前10世紀のイスラエルの王で、この時代がイスラエルは最も栄えました。
「ソロモンの栄華」と言われているように、ソロモンは贅沢の限りを尽くした王でした。
その宮殿は、絢爛豪華であり、アラビア(今のイエメンですが)から訪ねて来たシバの女王は、その豪華さに、全く気を奪われてしまった、と言われています。

しかし、ソロモンの華麗な衣でさえ、このガリラヤの野の花よりも美しくなかった、とイエスは言います。
権力と財力の限りをつくして誇示したものには限界があります。
神がこのように野の花に与えてくれる美しさを考える時、同じ神が、神のかたちにかたどって創造された人間をより大切に養って下さらないはずはありません。
私達は、神がこのように私達を大切に養って下さっていることに気づかない時、思い煩い、不平を抱き、不満を持つのです。
そういう私達に、イエスは、「ああ、信仰の薄い者たちよ」と言われます。
31ー32節には、次のようにあります。

だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。

生活についての思い煩いは、現状の不満から来ます。
しかし、不満を並べたてたところで何になるでしょうか。
それは、新たな思い煩いにしかならなりません。
27節には、次のようにあります。

あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。

ここでイエスの言っているのは、思い煩いは、全く無益である、ということです。
不満が起こるのは、状況が、境遇が、そうさせるのでしょうか。
そういう場合もあるかも知れません。
何ひとつ不満のないようの状況の人でも不平場かり言っている人もいます。

また逆に、本当に不幸な状況に置かれた人でも、感謝の生活を送っている人もいます。
先程の星野富弘は、不治の病になってかえって神の愛を知るようになった、もし自分が健康で普通の生活をしていれば、一生神の愛を知らずに過ごしたかも知れない、と言っています。

しかし、同じ状況に置かれても、神の愛を知らない者にとっては、それは不満に思い、神の愛を知る者には、それが感謝となります。
同じ人生を歩むのであれば、不平、不満の人生よりは、喜びと感謝の人生の方がいいでしょう。
キエルケゴールは、すべてこの世的な思い煩いは、人間が他の者との比較に悩みつつ、何とかして、自分が特別な者になろうともがき努めることに原因を持つと言っています。

私達が、野の花を見て教えられるのは、そのような他人と比較して自分がどうこうと思い煩うのでなく、創造者なる神が、常に私達を愛し、豊かに養って下さっている、ということです。
私達は、ちょっとしたことにすぐに思い煩ったり、不平を述べたりするのでなく、神の養いを思い、自分に与えられた道を喜び、感謝出来る者になりたいと思います。
この花の日礼拝において、わたしたちは、野の花を美しく咲かせて下さる神の配慮に心を馳せると共に、それ以上に配慮して下さる神の愛に目を向け、感謝をしたいと思います。