全校礼拝

高等学校

中学校

本日、全校礼拝が実施されました。

 聖書:マルコによる福音書10:13~16  
 讃美歌:451番  「子供のように」

 

 今日読んだ記事は、イエスが子供たちを祝福した、という記事です。13節には次のようにあります。イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。ここで、「人々が子供たちを連れて来た」と記されています。この人々がだれなのか、その幼子がどのような人で、何人なのか、何の目的で連れて来たのか、ということは一切言われていません。イエスの周りには、実に色々な人が集まりました。子供は、当時のユダヤ人の社会では、何等重要視されない、無視された存在でした。それは、子供はまだユダヤ教の律法を守ることが出来ない存在であったからです。しかし、イエスは、その子供を重要視しました。 さて、今日のところで、人々が幼子を連れて来たのは、イエスに触れて頂くためだ、とあります。恐らくこの人々というのは、田舎の素朴な人々で、イエスの評判を聞きつけて、イエスに触れてもらったら何かいい事でもある、と単純に思ったのでしょう。彼らはイエスが病人に触れたら病が癒された、というような評判でも聞いたのでしょう。いわば、御利益的な思いから、わが子をイエスに触ってもらおうとしたのでしょう。 しかし、それを見て、弟子たちは「叱った」とあります。この「叱った」と訳されている語は、もっと強い調子の言葉です。「叱りつけた」位でしょう。 この「子供たち」と訳されている語は、ギリシア語ではパイディオンという語ですが、新生児に使われることもあれば、12歳位の娘にも使われることもあります。従って、この語は、かなり幅のある年令の子供をさしています。従って、ここでイエスの所に連れて来られた子供は、赤ちゃんであったのか、あるいはもう思春期になる位の子であったのかは、分かりません。そして、この語は複数になっているので、一人ではなく、何人か、恐らく数人であったでしょう。突然の子供の登場は、弟子たちには、余計な事であり、そのような子供たちが邪魔であったでしょう。 しかし、イエスの態度は弟子たちとは、対照的です。14節には、
  しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」
とあります。ここでイエスは「憤った」と言われています。勿論弟子たちの態度に対してです。弟子たちは、むしろイエスの為を思ってしたことであったかも知れません。即ち、忙しいイエスにそんな子供にわずらわせてはいけない、と配慮したのかも知れません。しかし、それはイエスのみ心とは全く違っていたのです。この「憤った」というのは、非常にきつい語です。激しい怒りを表します。そして、この語がイエスに言われているのは、ここだけです。ここには、子供たちに対するイエスの愛と、子供たちを軽んじる弟子たちに対する非難が表されています。そしてイエスは、「神の国はこのような者の国である」と言います。これは一体どういう意味でしょうか。子供は汚れがなく純粋であるから神の国にふさわしい、ということを言っているのでしょうか。しかし、子供も結構いじわるをしたり、悪いことを考えたりします。必ずしも罪がない、純粋だとは言えません。子供自体が評価されているのではありません。そうではなく、子供は全く無力な存在である、ということです。これは高く評価されているというよりは、負の評価です。当時のユダヤ人の一般的な判断によると、子供は律法については無知であり、それゆえに律法に照らして神の前に自分を主張出来ない存在です。従って、子供は、自分に誇るべき何物もないのです。社会的にも、何の力もなく、何の影響力もないのです。もし、親や大人の庇護がなければ、子供は非常に惨めな存在です。それゆえに、いつの時代にも、子供が受難を受けることがあります。そして現代においてもそういう現象がしばしば見られます。子供は無力であり、大人の暴力に抵抗することも出来ません。また、法律などを知らないために、自分を主張することも出来ません。また、日本では、最近幼児虐待ということが社会問題になっています。最も頼るべき実の親に虐待されたら、子供は一体だれに頼ればいいのでしょうか。子供というのは、そのように本質的には全く無力な存在なのです。イエスは、その自ら何の誇る所もない、弱い存在である子供を受け入れ、愛し、祝福したのです。 ここでイエスが子供を祝福したのは、子供の側にそれにふさわしいものがあるからではありません。それは神の徹底的な恵みの賜物にほかなりません。神の一方的な恵みです。ここでイエスは、数人いたであろう子供を一人一人吟味して、それに基づいて祝福をしたりしなかったり、ということはしていません。全く無条件にどんな子供も受け入れ、等しく祝福しているのです。勿論ここで、子供たちは、初対面のイエスに対する信仰などはもっていなかったでしょう。子供たちの側に何か祝福に足るものをもっていたからではなく、全く無条件にイエスは彼らを祝福したのです。これは当時のユダヤ教からは、考えられないことでした。当時のユダヤ教は、律法主義、功績主義でした。その人に何らかの功績なり、資格なりが必要でした。従って、律法を忠実に守り、自分に資格があると思う人は、自分を誇り、資格のない人を見下げたのです。子供は当然、大人のように律法を忠実に守ることが出来なかったから、低く見られていたのです。イエスは、そのように当時の社会において低く見られた人にあえて近付き、交わりをもたれたのです。それは取税人であり、病人であり、女性であり、子供であった。しかし、イエスはこのような無力な人を受け入れ、愛されたのである。 15節には
  はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決  してそこに入ることはできない。
とあります。子供は全く無力な存在です。従って、常に親に頼ります。このことと、自分に誇るべき物がない者は、神に頼らざるを得ない、ということと比べているのです。私達はどうでしょうか。何か誇るべき物を持っているでしょうか。私達も実は、本当は無力なものではないでしょうか。本当は、何も誇るべきものは、ないのではないでしょうか。ただ神に頼るしかない存在ではないでしょうか。そしてそういう姿を謙虚に認めるならば、私達はかえって神の国が近いのです。私達も幼子のように神の国を受け入れる者でありたいと思います。