全校礼拝 ローマの信徒への手紙5章1~5節 「苦難から希望へ」

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2018年4月27日 全校礼拝が行われました。

宗教主事の樋口進学院長が、
ローマの信徒への手紙5章1-5節  「苦難から希望へ」
と題して、お話をしてくださいました。

 皆さんは、何か苦難にぶつかったことがあるでしょう。そういう時、どうしますか?
そういう時には神や仏に祈ったりと言うことはないでしょうか。「困った時の神だのみ」という言葉があります。何とかして、その苦しみから救われたいと祈るのではないでしょうか。

 しかし、先程読んで頂いたローマの信徒への手紙5章3節で、パウロは「苦難をも誇りとします」と言っています。以前に訳された口語訳聖書では、「患難をも喜んでいる」と訳されています。患難とか苦難は、私達にとっては、決して歓迎すべきものではないでしょう。少なくとも、それを喜んだり、誇りにしたりするものではないでしょう。そういう事態は出来るだけ避けたいし、もし起こっても出来るだけ早く取り除いて欲しい、と思うものではないでしょうか。そして、そのために神仏に願ったりするのです。

 しかしここでパウロは、「苦難をも誇りとします」と言っています。どうしてでしょうか。それは、その苦難はそれに終わらず、希望へと通じていることを信じていたからです。それは、神を信じ神に委ねることから与えられる希望です。

 皆さんもよくご存じだと思いますが、星野富弘という人がいます。彼は元々、運動のすごく出来る人でした。そこで、体育の先生になろうと思って、群馬大学の体育科に入り、そこを無事卒業して、念願の通り群馬県の高校の体育の教師になりました。
 
そして、2カ月たったある日、クラブ活動の指導中、器械体操をしていて、誤って墜落し、首の骨を折り、肩より下がすべて麻卑するという障害を負いました。念願の体育の教師になったのもつかの間、たった2カ月で、不治の病にかかったのです。星野さんは、もう目の前が真っ暗になってしまいました。
首の骨の所には、体中の神経をつかさどる中枢があって、彼の場合、肩から下に行く神経がやられてしまったので、手も足も一切動かすことが出来なくなりました。ベッドに横になって、ただ天井を見つめるだけの生活でした。
 
ただ、首から上の神経はやられなかったので、口を動かしたり、目で見たり、耳で聞いたり、また頭で考えたり、ということは出来ました。目で本を読むことは出来たので、最初はお母さんに本を持ってもらって、後には本を乗せる道具を作ってもらって本を読みました。
 
彼を励ます人もたくさんいて、病院にお見舞いに来ては、励まし、本も置いていきました。そんな中で、教会の人が聖書を置いて行きました。星野さんは、聖書を所々読むうちに先程のローマの信徒への手紙5章3~5節を読んだのです。口語訳聖書で読みました。そこには次のようにありました。

「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。」

 これを読んだ時、彼は自分は手も足も動かないけれども、自分にも何か希望があるように思えてきました。そこで、たった一つ動かすことのできる口を使って、何かをしようとしました。それは、口にサインペンをくわえて、字や絵を描くことでした。そして、本当によく努力をして、字を書くことを拾得しました。また、絵も描きました。そして、今や何冊もそのような絵と詩の書かれた本が出されています。こんな素晴らしい絵を口で描いているとは信じられないほどです。人間、希望に生きることが、いかに大きな力を与えてくれるか、ということが分かります。

 このローマの信徒への手紙を書いたパウロという人も、実にいろいろな苦難に遭遇しましたが、その苦難自体を見て絶望的な思いを抱くのでなく、その苦難は忍耐を通して、希望へとつながっていることを確信したがゆえに、大きな働きをなすことが出来たのです。
 
苦難を経験しない人はいないと思います。私たちも長い人生の中に置いて、多かれ少なかれ何らかの苦難に遭遇します。あるいは皆さんの中にも、現在何らかの苦難を抱いている人もいるかも知れません。その時に、絶望に打ちひしがれてしまうのでなく、忍耐をしつつ、その中になんらかの希望を見いだして、希望に生きる者でありたいと思います。