全校礼拝 ルカによる福音書15章8~10節 「かけがえのないもの」

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2018年6月15日(金) 全校礼拝が行われました。
宗教主事の樋口進学院長が、
ルカによる福音書15章8~10
節 「かけがえのないもの」 と題して、お話をしてくださいました。


今読んでいただいた話は「無くした銀貨」のたとえ、と言います。
ある女の人が銀貨10枚もっていて、その1枚を無くしたところ、それが見つかるまで家中をひっくり返して一生懸命捜した、という話です。これは当たり前のように思われます。私たちだって、お金を無くした場合には一生懸命捜すでしょう。しかし、ここでこの女の人の態度が不思議に思えるのは、無くした銀貨が見つかった時の態度です。この喜びの態度です。

見つかった時に、友達や近所の人を集めて「一緒に喜んで下さい」と言った、と言うのです。私たちもお金を亡くした時に、それを一生懸命捜しはしますが、それが見つかった時に、友達や近所の人たちを集めてこういうことをするでしょうか。莫大なお金を無くして、それが戻ってきた場合には、あるいはそういうこともするかも知れません。しかし、ここの銀貨というのは、そんなにびっくりするほど高価なものではありません。

これは、ギリシアのドラクメ銀貨というもので、労働者の一日の賃金に相当する位であると言われています。当時の低賃金から考えて、仮に千円、あるいは2千円とします。そのくらいのお金が一生懸命捜して見つかった時に、近所の人や友人を呼んで、この当時の習慣として、そういう場合は必ず大判ふるまいをするのです。費用としては、当然見つかったお金よりもはるかに多くの費用がかかるのです。このような喜びを果たして私たちはするでしょうか。

それは、この女の人にとってその無くした1枚の銀貨は、他のものには代えられない、かけがえのないものであったからです。他の人にとっては、ただの1枚のそれほど価値のない銀貨かも知れませんが、この女の人にとっては、他のものに代えられない大切な銀貨だったのでしょう。千円、2千円位のものであれば、無くしても、またそれを手に入れてそれで代わりをすればいいと思うかも知れません。しかし、この女の人にとっては、それが出来なかったのです。それには、この銀貨には、この女の人にとって、何か特別の訳があったのです。

10枚の銀貨をもっていた、とあります。ここにあるいは特別な意味があるのかも知れません。当時のパレスチナの貧しい娘が結婚する時、10枚の銀貨を鎖に通して、結婚の記念として両親がもたせた、と言われています。恐らくここでも、この女の人が結婚する時に、その記念として両親からもらった銀貨の10枚だったのでしょう。それであるなら、他の人にとってはただの、それほど価値のない銀貨であったかも知れないが、この女の人にとっては、他の何ものにも代えられない貴重なものだったのです。

さて、この譬えでイエスが言おうとしていることは、神は私たち一人ひとりを他の何ものにも代えることのできないかけがえのないものとされている、ということです。親が自分の子を気に入らないから、それをだれかにあげて、もっと気に入る他の人をもらう、ということはないでしょう。たとえどんな子であっても、親にとって子はかけがえのないものです。それと同じように、神にとって私たち一人ひとりは、それ以上にかけがえのないものとして下さっている、というのが、この譬えでイエスが言わんとすることです。

しかし、私たちは、神からそんな大切にされていることに気がついていないかも知れません。もし、そのことに気付いたら、神は大喜びをしてくれる、と言うのです。そこで、10節を見て下さい。
「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」とあります。罪人とか悔い改めと言われていますが、要するに、わたしたちが神によってかけがえのないものとして愛されているのだ、ということに気がつくことが出来るならば、神はとても喜んで下さる、ということです。

また、明後日は「父の日」ですが、普段あまり気がついていないかもしれませんが、皆さんのお父さんも皆さんをかけがいのなない者として大事にして下さっていると思います。何らかのかたちで感謝の気持ちを表してはいかがでしょうか。