全校礼拝 「悩む力」 詩編25編15-22節

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2018年11月30日(金)の全校礼拝にて、宗教主事の樋口学院長が、
詩編25編15節~22節 「思いやり」と題して、お話をしてくださいました。

今日は、「悩む」ということが力になるんだという話をします。
姜 尚中という人の『悩む力』という本があります。帯には、「不安の時代を生き抜く逆転の発想」という言葉が書かれています。彼は、東京大学の教授をされていた人で、在日韓国人で、『在日 ふたつの「祖国」への想い』という本や自分のお母さんのことを書いた『母~オモニ』という本もあります。また、最近『母の教え』という本を出されました。さて、本のタイトルの「悩む力」というのは、彼の体験から出た言葉です。

私たちは、常日頃よく悩むのではないでしょうか。悩みの全然無い人などいないと思います。苦しい時、悲しい時、判断に迷った時、どうしていいか分からない時、私たちは悩むのではないでしょうか。そして、悩みなどは出来ることならない方がいい、あってもできるだけ少ない方がいい、そしてなるべく早く過ぎ去ってほしい、と思っていないでしょうか。すなわち、悩みはマイナスのことと捉えているのではないでしょうか。もし、悩みが自分にとってプラスのものだ、と捕らえることができるなら、まさに「逆転の発想」だと思います。

姜 尚中は、この「逆転の発想」を自分の母から学んだようです。彼の母は、在日韓国人として、波乱に満ちた悩みの海のような80年の生涯を送られたそうです。しかし彼は、その母の生涯を振り返って、「悩みの海を抱えていたからこそ、生きる意味への意志がより萎えることがなかったのだと思います。」と述べています。

人間を定義する言葉に、Homo sapiensと言うのがあります。これはラテン語ですが、homoというのは「人間」という意味で、sapiensというのは「賢い」という意味です。ですから、Homo sapiensというのは、「人間は賢い」という定義です。他の動物と比較するならば、人間が一番賢いと思われるので、この定義は適切だと思いますし、事実生物学上での名称になっています。

ナチスによって強制収容所に入れられ、『夜と霧』という本でその体験を書いたオーストリアの精神医学者フランクルは、Homo patiensということを言いました。patiensというのは、苦悩という意味です。ですから、Homo patiensというのは、苦悩するのは、人間の特徴だ、ということです。犬や猫になったことがないので分かりませんが、恐らく犬や猫が過去に行ったことを悔やんだり、未来のことについていろいろ思い悩んだりしているようには思われません。従って、悩むというのは、人間の特徴かも知れません。しかも、フランクルは、「苦悩する人間は、道具を使う人間よりも高い所にいる」と述べています。

さて、姜 尚中はこの『悩む力』において、誰にでも備わっている「悩む力」にこそ生きる意味への意志が宿っていることを、文豪・夏目漱石を手がかりに主張されています。漱石は、今から100年ほど前に活躍した人物です。姜 尚中は、夏目漱石は「個人」の時代の始まりの時、時代にのりながらも、同時に流されず、「悩む力」を振り絞って近代という時代が差し出した問題に向き合い、その生涯には「苦悩する人間」のしるしが刻み込まれている、と言います。

夏目漱石はイギリスに留学しますが、漱石にとって留学生活は決して楽しいものではなく、「先進国」イギリスの中に、日本が将来目標とすべき「希望」のようなものは全く見いだすことが出来ませんでした。それどころか、イギリス人ほどいやな国民はいないとすら思っていたほどです。憂鬱な日々を過ごしたとも言われています。しかし、そのような悩ましい生活があったから、いろいろなシリアスな作品が生み出されていったのです。代表作である『こころ』における先生のついには自殺に至る深い悩みは、漱石自身が深い悩みを経験しなかったら描けなかったでしょう。

さて、先ほどは詩編25編を読んで頂きました。この詩篇は、詩人の深い悩みの中から産み出されています。どういう悩みかははっきりとは分かりませんが、16節を見ますと「わたしは貧しく、孤独です」とありますから、経済的な悩み、人間関係の悩みなどが考えられます。また、19節を見ますと「御覧下さい、敵は増えていくばかりです。わたしを憎み、不法を仕掛けます。」とあります。「不法」と訳されている語はむしろ「暴力」と訳す方がいいかも知れません。すなわち、この詩人は人に憎まれ、暴力まで受けている、ということです。このような深い悩みから産み出された詩です。

そして、この詩人は17節で「悩む心を解き放ち、痛みからわたしを引き出して下さい」と神に祈っています。詩編の中の多くの詩は、このような詩人の深い悩みの中から産み出されたものが多くあります。そして、このような悩みの中から素晴らしい文学作品が産み出されているのです。ですから、悩みというのは決してマイナスなものではなく、そこから何か新しいものを生み出す力があるのです。