全校礼拝 「光は闇より」 ヨハネによる福音書1章6-9節

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2018年12月14日(金)の全校礼拝にて、宗教主事の樋口学院長が、
ヨハネによる福音書1章6-9節 「光は闇より」と題して、お話をしてくださいました。

 

先週の日曜日、12月2日の日曜日からアドベントに入りました。そこで、3日の月曜日には、夙川学院でもクリスマスイルミネーション点灯式を行いました。参加して下さった方もいると思います。

アドベントとは、ラテン語で「到来」という意味です。クリスマスに備える期間、クリスマスを待ち望む期間です。そこで、「待降節」とも言います。12月25日のクリスマスの四週間前の日曜日から始まります。

クリスマスである12月25日は、元来、古代ローマの「太陽神」のお祭りであった、と言われています。それは「冬至の日」にあたっていました。冬至は、一年中で一番昼が短い日ですが、これを境にして、太陽神が闇に打ち勝つことによって、段々昼が長くなると考えられていました。キリスト教では、闇に打ち勝つ真の光はキリストであるとして、キリストの誕生日をこの12月25日にしたのです。

先ほど読んでいただいたヨハネによる福音書1章9節に
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
とありました。

暗闇、これは、人々の不安や恐れや失望を表します。しかし、その暗闇に光が差しますと、不安や恐れは消え、希望や救いを感じます。このように、真の光としてのイエス・キリストの誕生は、不安や恐れをもっている多くの人に、希望や勇気や救いを与えます。そういう意味で、クリスマスには、希望や勇気や救いの象徴として光を用います。イルミネーションの光も、アドベントのローソクの光も、そのような希望や勇気や救いの象徴なのです。

イエス・キリストの誕生日であるクリスマスは、皆さんに希望や勇気や救いを与えて下さいます。イルミネーションの光やローソクの光を見ながら、わたしたちも希望を持って歩んでいきたいと思います。

ヨハネによる福音書では、言葉であるキリストが「まことの光」としてこの世に来られた、ということが言われています。聖書において、光は非常に重要な意味をもっています。まず最初に、聖書の冒頭の創世記の初めにおいて、神が光を創造されたと言われています。その時神は、光と闇を分けられた、とあります。すなわち、この世には光という要素と闇という要素があるのです。何かと暗い出来事の多い現在も闇に支配されているという印象があります。

先日、京都の清水寺で今年の漢字が発表になりました。それは、「災」という漢字でした。今年は、多くの自然災害に見舞われた年でした。地震、大雨、台風などによって、多くの人が被害に遭いました。今は、暗闇という印象も受けます。また、一見平和そうに見える日本においても、暗闇が覆っていると思われる状況があるのではないでしょうか。

最近、尊い命が無惨にも犠牲になるという暗い事件が多く起こっています。いじめによって小学生や中学生が自殺するという事件もよく起こりました。また、幼児虐待で、実の親が実の子を殺すという痛ましい事件もよくあります。まさに、今の日本は暗闇に支配されているのではないかという印象を持ちます。また、私たちの人生においても闇に支配されていると思われるときがあるのではないでしょうか。突然の病気や事故、仕事の行き詰まりや人間関係がうまくいかない、といったこと。そのようなとき、暗闇にいるように、暗い気持ちになるのではないでしょうか。まさに、闇に支配されていると思えるような現実が多くあります。

イエスが生まれた時代も、特にローマ帝国によって支配されていたユダヤにおいては、多くの民衆は暗闇のような生活を強いられていたのです。そのような暗闇に支配されているこの世に、イエスが「真の光」として到来した、というのがヨハネによる福音書のメッセージです。

私たちはしばしば暗闇に支配されるときがありますが、キリストはその暗闇の中で輝いている、と言われています。そして、クリスマスは、この闇に完全に勝利する方がこの世に来られたことを告げるものなのです。

先ほどのヨハネによる福音書1章9節に、
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
とありました。

ここに、「すべての人を照らす」とあります。聖書においては、人間はすべて神によって創造されたものです。ですから、すべての人間が神の愛の対象なのです。

ですから、クリスマスは、単にキリスト教徒にだけ光をもたらすのでなく、すべての人に光をもたらすのです。それが、神の願いであり、またキリストの願いでもあります。